不在の劇場

メモ書き

人並みの幸福と人並みの努力

 『俺のように天分の薄いものは「平凡人としての平和な生活」が、格好の安住地だ。学校を出れば、田舎の教師でもして、平和な生活に入るのだ。』
人並みの幸福―家庭を持ち、子供を育て、一軒家を持ち、自家用車を持つ―そんなテンプレート化された幸福を求めてしまうのが日本人のサガというものだと思っています。そして、往々にしてそういう『平凡人としての平和な生活』を甘く見ている傾向がある、と思っている。ブラック企業に入って苦しんでいる人も、夢を追っているふりをして生きている人も、『平凡人としての平和な生活』が簡単に手に入る・・・・・・というような夢を見ている。そう、僕らは努力しなくても手に入る『平凡人としての平和な生活』を心から望んでいる。主語が大きくなった。私はそういう生活が誰にでも手に入ればいいと思っているし、そういう生活が手に入ることが幸福だと思っている。

 その一方で、もう一人の私が心の中でつぶやく、「大切なのは、幸福になることではないよ」と。

 幸福、幸福、幸福。幸福とはなんでしょうか。テンプレート化された平凡人としての幸福こそが至極とされていた世の中から少しずつ世界は変わっていて、みんながみんなそれぞれの幸福の在り方を手にし始めているのが本当に妬ましい。どうしてみんなそんな風に自分たちの暮らしをイメージして行動することができるのだろうか。私は別に無駄な努力がしたくないとかそういうことを思っているのでもなく、幸福になるためにならどんなことだってやって見せるという気持ちだけを持っている。嘘です。幸福とはなるべきものではなく、在るものです。なんて言葉はいらないです。帰ってください。
 私の幸福はどこ?青い鳥は近くにいるのでしょうか。この狭くて暗く何もない四畳半の世界に、青い鳥はいるのでしょうか。いるわけないでしょう。青い鳥を捕まえるために何かをしたことすらないというのに、幸福が舞い降りてくるわけがないんだ。涼宮ハルヒも中原岬もこの世界にはいない。いない。彼を連れて飛んでいってしまったから。醜い肉の身体は彼方には連れていけないから。だから、現実は嫌いなんだ。いつも置いていかれる。誰もかれも先に行く。境界があるんだ。あそこには。だから、彼ら彼女らの幸せは私のものにはならない。そうして私は繰り返す、あの素晴らしいをもう一度。

 何かを為すためには何かを減じなければならないらしい。罪を清算したり、過去と向き合ったり、選択肢を削ったりと、無限の可能性ややってしまった過去から目を背けて歩いていくことはできない。ライが忘れてしまった過去を清算したように、白銀武が冥夜に別れを告げてから彩峰のもとにいったように、幸福を手にするためには何かをしなくてはならない。幸福は降ってこない。逆を言うと、私からみて幸福に見える人たちはその幸福のために何かしらをささげてきた人なのでしょう。どこにも到達することのない電車ごっこをしていた私とは違って、どこかたどり着きたい場所に向けて努力をしてきた人たちなのでしょう。穏やかに暮らしたいと思うのが遅すぎたのかもしれません、私たちは。だからこんなところで他の人が捨てなくてもよかったものを捨てなくちゃいけなくなっている。自分が欲しかった夢を捨て、自分が関わりたくなかった労働をし、延々と幸福ってなんだろう、と思いながら、いつか幸せになれる日を夢見て布団を被っている。だからもう、誰も起こさないでくれ。
 
 夢、夢、夢の世界。夢の世界は幸福であふれています。あの世界であれば私は苦しむことなく死ぬことができる。びっくりはするけれど。夢を見る方法は簡単で、うつぶせで眠ればいいだけなんです。それだけで私は夢の世界へ旅立てる。眠りにくい環境というのがいいんでしょうか。苦しい体制で眠ることで、眠りが浅くなり、夢が見られるような気がする。そこでは現実の醜い肉の身体は捨てて私は私ではない私になって、自由に生きている。苦しい体制で寝ているだけあって悪夢をみる確率も高いですが、それでも現実よりはきっとましです。それが夢なき普通の人以下の人間に許された幸福です。普通の人以下の我々に許されるのは現実以外での幸福です。現世は捨てて夢をみましょう。夢のために働きましょう。眠ることのできる身体と生活を手に入れるために働くのです。そうしてできるだけ多くの時間を睡眠に費やし、できるだけ長い時間夢を見るように心がける。醜い肉の身体では異世界にいくことも、過去にいくことも、誰かから愛されることもありませんが、夢の世界であればチャンスがあります。そこにかけましょう。努力は不要ですから。つらくなったらリタイヤすればいいのですから。ええ、神様もきっと許してくれる。それが私たちに許された幸いだから。

 努力、努力、努力。人がどれだけみじめにあがいてみたところで自然の美しさには敵わないもの。だから、何かをしようと考えた時点で自然に負けている。現実がなければ空想も幻想も生まれない。それはつまり、現実こそが至高であるということ。幻想も空想も現実の讃美歌に過ぎないのよ。美しい現実を切り取って空想と幻想が生まれた。はじめに現実在りき、だ。だから本当の幸福は現実にしかない。現実以外から持ってきた幸福は全部偽物なんだ。そんな偽物で満たされる心なんて存在しない。生きている限り。だから、きっと僕らは努力するしかないんだ。自分だけの青い鳥を見つけて、それを捕まえるために努力をしなくてはいけないんだ。そうしなければ、きっといつまでも幸福という幻想に取りつかれて、括ることになってしまう。これでみんなしあわせになれる。どっちが幸福かはわかりませんが。だって、私は死んだことがないもの。

 努力をしろと、人は言う。努力が何かを教えてくれるひとはもういない。みんな先に行ってしまったから。そして自分たちの幸福に閉じこもってしまった。彼ら彼女らも、自分たちの幸福を守ることで精一杯なんだ。ほかの可能性なんてみせてくれるなと、俺と同じかそれ以下の幸福であってくれと。そう願っている。社会はみんな。自分よりも優れた存在を、幸福な存在を認められるほど人は優しくない。だから、僕たちは幸福にならなくちゃいけないんだ。お前が考えるような幸福でなかったとしても、私だけのラストリゾートに向けて。歩かなくては、まだ、歩けるうちに。死んでしまう前に。